第二次世界大戦前、栄町一丁目には歌舞伎・新派の上演と、上村源之丞の人形座となった「稲荷座」があった。このお話は、五九郎が全国で有名になり、徳島の稲荷座で興業のおり、故郷に立ち寄った時のこと。講堂には町内から大勢の人が集まり、五九郎が何を話すのか、みんなワクワクして耳を傾けておりました。

〜〜〜劇界の快男子「五九郎」は静かに演壇に上った。〜〜〜

「皆さんはご存知ないですが、私は昔、上下島にいた武智亀之助という者の息子です。私の小さい時、私の家には二十円の借金があったのですが、それがどうしても返せなかった。

その頃は、着物を染める「藍」が、この町の主な産物であったので、私の親はその藍をつくって一年の生計を立てていたのですが、畑は人から借りて小作をしていたので非常に貧乏でした。

一年の間、夜も寝ず、粗末なものを食べて、土用の暑い炎天に葉藍を切ってムシロに広げて乾し、晩はその上にムシロの小屋を立てて寝て、番をして、ようやく出来上がったものを、問屋のかね万、それから向うの戸田へ売るのです。こうして一年中かかって稼いだお金は僅か百円位。その中で肥料代を払い、地代を払い、来年のしこみをしていると残らなくなる。一年中働いても借金の二十円が払えない。その苦しみを子供ながら気の毒でならず、しっかり働いて早く安心させてあげねばならぬと思い、十四歳の春、思い立って東京に出たのです。

しかしお金がないので、汽車に乗るわけには行かず、汽車よりも安い船で行きました。ところが私が東京へ出て沢山の人とつき合って見て、第一に感じたことは、学問がないという事でした。学校へ行っていた時分によく勉強していればよかったと思いました。そこで、どうにかして一人前の学問が受けたいと思って、板垣退助さん宅の玄関番に住み込みました。そうして、夜学に通わせていただくことになりました。

ところが昼間一生懸命に働いているので、その疲れで学校で眠くって困りました。皆さんは、お父さん、お母さんが揃っていて、慈み深い親に学校へ入れてもらって、りっぱな学校で、良い先生に教わるのですから、私の鉄を踏まないように、学問に精出されて立派にならねばいけません。私の小さい頃は、苦しい貧乏な生活の中から、川島にあった高等小学校へ毎朝通わせてもらいました。ところがその高等科も家が貧乏なので、月謝が払えないので半年でやめなければならなくなりました。そこで、これはどうしても自分がお金をもうけて、親を安心させねばならぬ義務があると考え、東京に出たわけです。

そして二十の歳に、親を喜ばせたいと思って苦学しつつ、ためたお金をもって二十円の借金を払いに徳島に帰ったのです。ところが私の家はその後も貧乏をして、もう鴨島で居られなくなって、北海道へ移った後でした。私はこの上もなく落胆しました。東京へ帰ってからもう親に会えないか、もう船は沖を通らないだろうかと、時々、小高い物干し台の上へ上って、沖を通る船を眺めていました。

 その後、北海道へ行って見ると、親は札幌市の東北二里の所に、大きな木がいっぱいにはえている熊の出そうな、さみしい所に住んでいました。そこに麦わらのたばを束ねて、壁のない家を作っていました。私の着いたのは雪の降る寒い冬でした。その麦わらの束の間から雪が吹きこんで、寝ている蒲団の上へ、五寸くらい、雪が積っているのです。

私はそれを見て泣きました。そんな寒い所で木を割って、まきをこしらえ、それを乾かして札幌の町へ売りに行くのです。一本、一銭五厘か二銭で売って、一年中のお小使いを稼いでいたのです。私は親にこんな苦労をかけてはすまない、もう少ししっかりせねばならないと、一層仕事に励みました。そして両親を東京へ引き取って大切にしました。

お父さんは二、三年前に安心をして亡くなりました。今はお母さんが 七十で生きて東京に居ますが、別荘をこしらえて女中にお守りをさせ て、毎日好きな浄瑠璃のけいこをして樂しんでおります。これがせめてもの私の親孝行です。

私は常にお日様、太陽を尊敬しています。この太陽くらいよく働くものがありましょうか。毎日毎日夜が明ければ出て、たゆまず世界を照らして働いている。昼寝をむさぼったりするのは、もったいないことです。私は、はりきった心を常に持っているので、まだ一日も病にかかって太陽の出ている時に寝たことはありません。皆さんも時間を大切にして、立派な人になってください。という時間は世界が始まって以来、またこれからも二度とはないのであります。私はいつもそういう気持ちで時間を尊重して働いています。

みなさんもどうか世の中に名をなす人になって、先生方のご恩に報いて下さい。しかしどこまでも身体が大切ですから、身体に気をつけるように。どうか私のような、つまらない者の言った事でも、無意義にしないよう、何かの役に立てて下さい。そうすれば曾我廼家五九郎、武智故平は喜びます。」と、言って頭を下げて静かに壇を下りた。期せずして拍手は起こった。しばらくは講堂も張りさけんばかりに『曾我廼家さんはお芝居が上手なばかりでなく親孝行な方だ。勤勉な方だ。』と、そこここで囁く声が聞こえた。

曾我廼家五九郎 1876(明治9年)4月13日誕生〜1940(昭和15)7月7日64歳没